静かな曇り空の下、北の大地に一頭の栗毛の牡馬が誕生した。1988年5月27日、北海道・新冠町――錦岡牧場。やがてその馬は「ヤマニンゼファー」と名づけられ、血統と魂の風をその身に宿していた。
父は名マイラー・ニホンピロウイナー、母はヤマニンポリシー。その血の中には、切れ味鋭いスピードと、確かな持続力、そして誇り高い気質が流れていた。しかし、彼の歩む道は、最初から華やかだったわけではない。
1991年、競走馬としての第一歩を踏み出したヤマニンゼファーは、初戦を制し注目を集めるも、続くレースでは勝ち切れない日々が続いた。「もう一つ上の力がほしい」――そう囁かれる中、陣営は彼の成長を信じて、焦ることなく彼を育てていった。
そして訪れた1992年。東京競馬場にて行われた安田記念。強豪が揃う中、ひときわ静かにゲートに立ったヤマニンゼファー。その背にいたのは、まだGⅠ未勝利の騎手、柴田善臣。スタートの号砲が鳴り響く。直線、彼の脚が火を吹いた。まるで風のように、そして稲妻のように、馬群を割って抜け出す――。
「1着、ヤマニンゼファー!」
歓声が轟く中、柴田の目には涙が滲んでいた。彼にとっても、初のGⅠ制覇。人馬は共に夢を掴んだ。
翌1993年、再び京王杯スプリングカップを制し、迎えた安田記念での連覇。軽快な脚取りは健在だった。そして、秋――。距離の壁が囁かれる中、天皇賞(秋)に挑むことが決まった。これまでマイル戦で活躍してきた彼にとって、2000mは未知の領域。しかし、ヤマニンゼファーは迷わなかった。
ゲートが開いた瞬間、彼は迷いなく先頭に立ち、息の長い脚を使い続けた。最終直線、後続が迫る中、必死に食いしばる。まるで風に逆らいながらも進む船のように、ヤマニンゼファーはゴールを目指した。
「1着、ヤマニンゼファー!」
その瞬間、風は確かに東京競馬場を吹き抜けた。
その年のスプリンターズステークスでは惜しくも2着に敗れたが、彼の一年間の活躍は誰もが認めるものだった。最優秀4歳以上牡馬、最優秀スプリンター、最優秀父内国産馬――数々のタイトルが、その実力を物語っていた。
だが、栄光の道は永遠ではない。1994年、かつての切れ味は鳴りを潜め、彼は引退を決意した。
第二の馬生は、種牡馬としてのものだった。彼の血を受け継いだ仔たちは、中央・地方を問わず競馬場でその姿を見せた。けれども、彼のような「風」を纏った者は、現れなかった。
2017年5月16日、静かにその生涯を閉じたヤマニンゼファー。彼の名を耳にすれば、今でもあの東京の風を思い出すファンは少なくない。
あの日、ゴールへ向かって駆け抜けた風。その風の名は、ヤマニンゼファー。
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