北海道の静かな牧場に、ひとつの命が生まれ落ちたのは、1985年のことだった。
凛とした空気の中、冷たい風に震えながら、ひときわ逞しく立ち上がったその牡馬の左前脚には、外向という宿命が刻まれていた。
周囲は言った。「脚に難がある。長くはもたんかもしれん」
だが、調教師の目には、その馬の歩様に、どこまでも続く希望の光が差していた。
「クリーク(小川)と名付けよう。たとえ今は細くても、いつかきっと、大河のように力強く流れる馬になる。」
そうして、彼は「スーパークリーク」と名乗ることになる。
彼の旅立ちは、静かで、そして決して順風満帆ではなかった。
阪神競馬場で迎えたデビュー戦。真っすぐに走れず、斜行しながらも2着。
2戦目で初勝利を挙げたものの、期待されたクラシック戦線では、次々と名を上げていく同世代のライバルたちに押され、彼は一歩後ろを走っていた。
骨折――。
予期せぬアクシデントは、競走馬にとって致命的ともいえる試練だった。
復帰後の神戸新聞杯は3着、京都新聞杯では進路妨害により6着と敗れる。
クラシック三冠最終戦「菊花賞」の出走資格すら危うい中、調教師(テキ)は言った。
「もう一度、チャンスを」
その言葉が届いたのか、運命はクリークに微笑む。
繰り上がりで、彼はついに菊花賞の舞台に立つ。
1988年11月6日、京都競馬場。
雲ひとつない秋晴れの下、鞍上には当時まだ19歳の若き天才。
ゲートが開く。
クリークは決して最前に出るタイプではなかった。
中団で脚を溜め、じっと静かに、時が満ちるのを待つ。
そして、最後の直線――。
内から、するりと抜け出す。
気づけば、2着との差は5馬身。
圧勝だった。
鞍上にとっても、これが記念すべきGI初勝利となる。
「この馬が、僕のすべての始まりでした」
騎手はそう語る。
菊花賞の勝利がすべてを変えた。
それは、スーパークリークという馬にとってだけでなく、平成という時代の競馬にとっても。
翌1989年。
彼は再び、競馬場へと帰ってくる。
京都大賞典ではレコード勝ち。
天皇賞(秋)では、あのオグリキャップを退け、GI2勝目。
「三強時代」の幕開けである。
1990年、産経大阪杯、そして天皇賞(春)を制し、三度目のGI制覇。
その姿は、もう「小川」ではなかった。
堂々とした流れをもって、多くの名馬たちを押し流す、「大河」となっていた。
だが、どんな流れにも終わりは来る。
秋の天皇賞、そして有馬記念。
万全でなかった脚は限界を迎え、彼の戦いは静かに幕を閉じた。
それでも、クリークの物語は終わらない。
彼は種牡馬として第2の人生を歩み始めた。
かつてのような華々しい勝利には恵まれなかったかもしれない。
それでも、引退後も多くのファンが牧場を訪れ、彼を見守った。
2010年8月29日、25歳で永眠。
その最期まで、スーパークリークはまっすぐに生き抜いた。
人は言う――
「スーパークリークは、騎手を育て、時代を作った馬だった」と。
だが、彼はただ静かに走っていた。
どこまでも、ひたむきに。
風のように、流れのように。
やがてそれが、すべての心を打つ大河となったのだ。
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