五月の風がまだ冷たい北海道の牧場。静かな夜明け前、一頭の栗毛の牝馬がこの世に生を受けた。母の温もりに包まれながら、震える足で大地を踏みしめたとき、彼女は知らなかった。これから歩む道が、名を残す伝説の始まりであることを。
名は――スティルインラブ。
その名に託されたのは、たとえ時が過ぎても、ずっと愛し続けられる存在になるようにという願いだった。父は偉大なサンデーサイレンス。母はブラダマンテ。誰もが血統に夢を託し、だがその期待が重荷になることもある。だが、彼女は違った。
デビューは阪神、芝1400メートルの新馬戦。パドックで揺れる栗毛のたてがみ。人々の視線を一身に浴びながら、彼女は静かに歩いていた。緊張も焦燥もなく、ただ前だけを見ていた。
「この娘、目が違う」
そう囁く声が、スタンドの隅から聞こえた。果たして、レースでは2着に3馬身半の差をつけての圧勝。走ることが楽しい、風を切ることが好き。それが彼女のすべてだった。
2003年、クラシックの年がやってきた。
桜の花が舞う阪神競馬場。桜花賞。観客の歓声が轟くなか、スティルインラブは4コーナーを回った。前を走る馬たちの背が近づく。鞭の音、風の叫び、土を蹴る蹄音――すべてが彼女の背を押した。
「――抜く!」
彼女の中で何かが閃いた。ゴール板を駆け抜けた時、騎手・幸英明の瞳に光る涙を見た。彼にとっても、それが初めてのG1制覇だった。
続くオークス。東京の長い直線は、試練でもあった。ライバル、アドマイヤグルーヴ。多くの者がそちらに夢を見た。しかし、スティルインラブは負けなかった。風に乗るように伸びた脚。泥を跳ね、地を掴み、彼女は再び勝利をもぎ取った。
そして、秋の京都。秋華賞。
三冠がかかった一戦。牝馬としての誇りとプライドを胸に、彼女は全力で走った。アドマイヤグルーヴがすぐ後ろにいた。抜かれそうになりながら、彼女はもう一度、自分に問いかけた。
「まだ、愛されていたいか?」
答えは走りに表れた。振り絞るような末脚、そして、三冠の栄光。史上2頭目の牝馬三冠。スタンドが、歓喜に包まれる。
だが、その後、彼女の蹄は次第に重くなる。勝てない日々が続いた。走っても、走っても届かない。誰かが囁いた。
「もう終わった馬だ」
それでも、スティルインラブは走り続けた。彼女の目には、まだ風が見えていたから。
2006年、引退。第二の人生――母としての道を歩み始めた彼女に、再び大きな役目が託される。しかし、それも長くは続かなかった。2007年、春。急性心不全。眠るように、彼女は旅立った。
厩舎の隅には、今も彼女の馬房が残されている。彼女の名札は、変わらぬまま。三冠馬。強く、優しく、そして――ひたむきに走った牝馬。
彼女が愛された理由は、勝ったからではない。走るその姿に、誰もが心を打たれたからだ。
Still in Love――
その名の通り、今もなお、私たちは君に恋している。
レビュー0