五月の北海道。冷たい風の吹き抜ける日高の牧場に、ひときわ鋭い眼差しを持った牡馬が生まれ落ちた。
その名は——スペシャルウィーク。
だがその誕生は、幸福なものではなかった。彼の母、キャンペンガールは出産後すぐに命を落とした。
産声をあげたばかりの仔馬は、母のぬくもりも知らぬまま、乳母馬のもとへと預けられた。
「この子は、特別な運命を持っているかもしれない」
牧場の老馬係がぽつりと呟いたその言葉は、どこか神託めいていた。
やがてスペシャルウィークは、美浦の名門・白井厩舎へと入厩し、天才と謳われる若きジョッキー、武豊の手綱を得る。
まだ幼さを残す表情の奥に、強い意志をたぎらせたその目を、武は一目で気に入った。
「この馬となら、日本の頂点を獲れるかもしれない」
1997年、京都の新馬戦で鮮烈なデビューを飾る。春のきさらぎ賞、弥生賞も完勝。世代のエースとして名を轟かせた。
しかし、皐月賞では3着に敗れる。
陣営に漂う落胆の空気。しかし、スペシャルウィークは違った。スタンドに目を向け、耳を震わせると、まるで誓うように足元を蹴った。
——次こそ勝つ。必ず、勝つ。
そして迎えた、1998年6月、日本ダービー。
2400メートルという距離の果てで、スペシャルウィークは風と化した。
コースの外からまくり、直線で先頭に立つと、誰も彼に追いつけなかった。
その勝利は、鞍上にとっても悲願だった。
誇りを賭けた戦い(1999年・ジャパンカップ)
晩秋の東京競馬場は、どこか緊張に包まれていた。
その日、スペシャルウィークの前に立ちはだかったのは、欧州最強馬・モンジュー。
今年の凱旋門賞を制し、世界最強の称号を手にした存在。
しかもそのモンジューが、スペシャルウィークの「生涯最大のライバル」と目されたエルコンドルパサーを破っていたことが、何より因縁を深めていた。
「お前の代わりに、俺が借りを返す。エルの誇りも、背負って走る」
スペシャルウィークの黒い耳がぴくりと動く。
その眼は、武豊の言葉を理解しているかのようだった。
スタートの合図。
東京芝2400メートルの舞台を、世界が睨む。
先行馬たちが折り合いを欠き、速い流れになる中、モンジューは中団。スペシャルウィークも静かに機を伺った。
最後の直線。インコースにわずかな隙間が空いたその瞬間、スペシャルウィークの脚が地を裂いた。
——それは、まるで時間が止まったかのような一瞬。
誰よりも早く、その隙間を嗅ぎ取った武豊。
誰よりも速く、その隙間に体をねじ込んだスペシャルウィーク。
外からはモンジューが猛追してくる。だが、その脚は、東京の芝を知らなかった。
差は――1馬身。堂々と、日本総大将が世界を打ち破った瞬間だった。
「これが、日本の競馬だ」
声を上げる武。スタンドは歓喜と誇りに震えた。
エルコンドルパサーを失ったファンの涙が、光のように揺れた。
第十章:誇りと別れ(2000年・有馬記念)
引退レース、有馬記念。
スペシャルウィークの名前がコールされたとき、中山競馬場のスタンドが一斉に揺れた。
そして、もう一頭の名がコールされた瞬間、空気が震える。
グラスワンダー。
ライバルであり、長きにわたり互いを意識し続けた存在。
2年前の有馬記念、スペシャルウィークはグラスの鬼脚に沈んだ。
だが今年、決着をつける最後の舞台が整っていた。
「今日が最後の戦いだ。誇りを懸けよう」
レースはスロー。中盤まで何も動かない。
グラスワンダーは内、スペシャルウィークは中団から外を進む。
——4コーナー、武豊がついにスパートをかける。
スペの脚が火花を散らすように伸びる。
一気に前をとらえ、残り200メートルで先頭へ。
だが、内からグラスワンダーが食い下がる。
逃げない。絶対に譲らない。互いの鼓動が、もう片方の鼓動を感じている。
最後の100メートル。グラスが内、スペが外。
観客の絶叫が、全てをかき消す。
——ゴール板が、ふたりを呑み込んだ。
結果はグラスワンダーが、わずか鼻差の勝利。
その瞬間、スペシャルウィークの眼差しが、すべてを悟ったように静かになった。
武豊は頭を垂れ、しかし、その手は強く彼の首を抱いた。
「悔しい。でも——お前は、最後まで王者だったよ」
厩舎に戻るとき、スペシャルウィークは何度も振り返り、スタンドを見上げた。
その姿は、涙をこらえる者たちの記憶に、永遠に焼きついた。
記憶の中に
スペシャルウィークはあの日、勝者ではなかった。
だが、あの1戦こそが、彼を永遠の名馬にした。
勝敗を超えた美しさ、誇り、そして別れの尊さ。
それが、有馬記念という舞台で語られた、日本競馬史上、最も美しい鼻差だった。
レビュー0