北の大地、北海道鵡川町――そこに広がる西山牧場で、一頭の小さな牝馬が生まれた。1989年4月19日。まだ春浅きその日、彼女は周囲の予想を裏切るように元気よく立ち上がった。
名前はニシノフラワー。だが、その体は決して大きくなかった。牧場スタッフの間でも「可愛いけれど、走る馬にはなれないかもしれない」という声が囁かれていた。しかし、その瞳には誰よりも強い光が宿っていた。まるで、「わたしは咲いてみせる」と誓うかのように。
デビューは1991年、夏の札幌競馬場。小さな身体を精一杯動かして、彼女は初戦を鮮やかに差し切った。その走りは誰の目にも明らかだった。「これはただ者じゃない」。
札幌3歳ステークス、デイリー杯3歳ステークス、阪神3歳牝馬ステークス。無傷の4連勝。1991年の最優秀3歳牝馬に選ばれた彼女は、わずか数ヶ月で名牝と呼ばれる存在となった。
1992年。春。満開の桜が咲き誇る阪神競馬場で、彼女はクラシック第一冠、桜花賞に挑んだ。チューリップ賞では惜しくも2着に敗れたが、本番で見せた走りは圧巻だった。スタートからしっかりと脚をため、直線で一気に開花する。3馬身半差の圧勝――ニシノフラワーは“桜の女王”となった。
だが、その後のオークスでは距離の壁に阻まれ7着。秋にはエリザベス女王杯でも惜しくも3着。「小さな花には長い距離は向かない」――そんな言葉が聞こえるようになった。
その声に応えるように、陣営は彼女を短距離路線へと導いた。スプリンターズステークス。年長の牡馬たちに囲まれても、彼女は怯まなかった。直線、内から力強く伸びて、先頭に立つ。ゴール板を駆け抜けたその瞬間、場内がどよめいた。牝馬が、古馬の頂点に立った瞬間だった。
その年、彼女はJRA賞最優秀4歳牝馬、最優秀スプリンターを同時受賞。名実ともに“花のスプリンター”となった。
1993年、5歳となった彼女はマイラーズカップを制するが、以降はかつての輝きを見せることはなかった。宝塚記念、安田記念――歯が立たぬわけではなかったが、かつての切れ味は影を潜めていた。
秋が過ぎ、冬の足音が聞こえ始めた頃。彼女は静かにターフを去った。16戦7勝。そのすべてに、彼女の誇りと意地が詰まっていた。
引退後は故郷・西山牧場へと戻り、母となった。母としてもまた、花を咲かせた。彼女の子孫、ニシノデイジーは重賞を制し、再びニシノの血統を競馬界に知らしめた。
そして2020年。31歳という大往生を遂げ、ニシノフラワーは静かにこの世を去った。その最期を看取った牧場スタッフは、こう語る。
「小さいけれど、本当に強い馬でした。誰よりも真っ直ぐで、誰よりもひたむきで……あの瞳は、最後まで輝いていました」
春、桜が咲くたびに、人々は彼女を思い出す。名牝ニシノフラワー。小さな体に大きな夢を詰め込んだ、奇跡の花は、今も多くの心に咲き続けている。
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