北海道・浦河。まだ春の気配が遠い1980年の朝、岡本牧場に一頭の牡馬が生まれた。黒く光る毛並みと堂々たる立ち姿に、誰もが「この仔は違う」と直感した。
その名は「ミスターシービー」。父はトウショウボーイ、母はシービークイン。スピードと根性、そして気高さを兼ね備えた血統だった。育ての親である千明康は、「この馬には“夢”を見せてもらう」と語った。
だがミスターシービーは、幼いころから自由気ままで、人に従うことを嫌った。調教中に暴れ、レースでは出遅れ、騎手たちは頭を抱えた。しかしその瞳には、何よりも“自分のやり方で走る”という意思が宿っていた。
1982年のデビュー戦。東京競馬場の静寂を切り裂くように、ミスターシービーは他馬を5馬身突き放して勝った。その圧巻の走りに観客は言葉を失った。
「追い込み」というにはあまりにも大胆で、あまりにも鮮やかだった。
だがその後のレースでは、スタートで遅れ、道中は後方。誰もが「もう届かない」と思った直後、最後の直線で彼は風のように駆け抜けた。
1983年、彼はクラシック三冠レースに挑む。
皐月賞。重い不良馬場に他馬が苦しむなか、彼はただ一頭、笑うように後方から駆けてきた。まるで「こんな馬場で勝ってこそ俺だろ?」とでも言うように。
続く日本ダービー。21頭立ての最後方、実況が「シービーは、まだ最後方!」と叫んだ瞬間、観客の心に不安が走った。だが彼は、府中の直線で一気に抜け出し、王者の座を奪った。
そして菊花賞。3000メートルという長距離で、またしても最後方。そこからの差し切り勝ちは、競馬史に刻まれる名場面となった。
「19年ぶり、史上3頭目の三冠馬──ミスターシービー!」
スタンドの歓声は地鳴りのようだった。彼の走りは、勝利というより“奇跡”だった。
1984年、彼は天皇賞・秋を制し、四冠馬となる。しかし彼の前に立ちはだかったのは、若き天才・シンボリルドルフ。二頭の王者の対決は競馬史に残る死闘となった。勝利はルドルフに譲ったものの、ミスターシービーの存在は色褪せなかった。
彼の走りは“型破り”だった。だが、誰よりも“信念に忠実”だった。
1985年、故障により引退。その背中にファンは声をかけた。「ありがとう」と。
種牡馬としての成績は振るわなかったが、それでも彼は、ひとつの“時代”を創った。
2000年12月。彼は静かに旅立った。最後まで自由で、誇り高く、そして優しかった。
──彼の走りを、誰も忘れない。
ミスターシービー。自由を貫き、信念を曲げず、ただ走り抜けた黒鹿毛の風。
その名は、永遠に競馬史に刻まれている。
レビュー0