空は澄みわたり、北海道・浦河の風は冷たいが、どこか凛とした静けさをまとっていた。1987年4月3日、その静寂を破って一頭の芦毛の牡馬が産声を上げた。名をメジロマックイーン。名門・メジロ家に生まれたその仔馬は、父にメジロティターン、祖父にメジロアサマという、天皇賞を制した者たちの血を受け継ぐ、正真正銘のサラブレッドだった。
だが、彼の幼少期は決して順風ではなかった。体質が弱く、成長は遅く、周囲からの期待の眼差しにも陰りが差すことさえあった。だが、誰よりもその輝きを信じていたのは、彼を育てた人々と、彼自身だった。
3歳(当時表記で4歳)の春、ようやく競走馬としての人生が幕を開ける。新馬戦を快勝し、その才能を片鱗だけ見せたマックイーンだったが、その後は2着、3着、2着と歯がゆい結果が続いた。けれども、彼は諦めなかった。夏を超え、秋風の吹く京都競馬場。重賞初挑戦となった菊花賞で、彼は堂々たる走りを見せ、ライバルたちを封じてゴール板を駆け抜けた。菊の季節に咲いた銀の王者。それがメジロマックイーンの真の誕生だった。
翌年、鞍上に若き日の武豊を迎えると、彼の伝説は加速する。阪神大賞典では堂々のレコード勝ち。そして、続く天皇賞(春)では、父子三代での勝利という歴史的快挙を成し遂げた。京都大賞典も制し、マックイーンの名は全国に轟いた。
だが、栄光の道に影は付きもの。1991年秋、彼は天皇賞(秋)で1位入線を果たすも、進路妨害により18着への降着という無念を味わう。その時のファンのざわめきは、今も語り草だ。
それでも、彼は立ち上がる。1992年春、再び阪神大賞典を制し、天皇賞(春)では無敗のダービー馬・トウカイテイオーとの一騎打ちに臨む。結果は、堂々の勝利。テイオーを突き放し、春の王座を連覇した。
「風になれ。」
彼は自らにそう言い聞かせるように、いつも静かに、そして力強く走った。
しかし、その後、彼の身体は悲鳴を上げた。骨折──長期休養が余儀なくされた。それでも彼は戻ってきた。1993年春、復帰戦となった産経大阪杯での勝利。そして天皇賞(春)での2着、宝塚記念では再びGⅠの座に君臨し、観客の前でその力強さを見せつけた。
けれど、時は残酷だった。再び彼を襲った故障は、競走馬としての終焉を告げた。
引退後、種牡馬としてのマックイーンは、直接の産駒でこそ目立つ成果を残せなかったが、その血は、後の怪物たちへと受け継がれる。ドリームジャーニー、オルフェーヴル、ゴールドシップ──奇跡を呼ぶ末裔たちが、彼の魂を競馬場に響かせた。
2006年4月3日。ちょうど19歳の誕生日。彼は静かに息を引き取った。だが、誰も彼のことを「去った」とは言わなかった。
なぜなら、風はまだ、競馬場に吹いていたからだ。栄光と挫折、そして再起。そのすべてを背負って走った白銀の王者。名は──メジロマックイーン。
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