春の風は、まだ冷たさを残していた。北海道浦河町。風が吹き抜ける広い牧場に、一頭の牡馬が生まれた。
鹿毛の毛並みは陽光を受けて赤銅色に輝き、彼の眼差しは、生まれながらにして闘志を宿していた。
「強く育てよ、サムソン」
牧場主がそう呟いたとき、まだ名もない子馬は風の方を見て、まるで未来を睨むかのように一歩を踏み出した。
――後に「メイショウサムソン」と名付けられるこの馬が、やがて数々の名勝負を演じ、日本競馬史にその名を刻むとは、まだ誰も知らなかった。
栗東の瀬戸口厩舎に入厩したサムソンは、無口で我の強い馬だった。調教師も手を焼いたという。
だが、ひとたび走り出せば、無駄のないフォームと根性で、誰よりも前へ出ようとする。そのひたむきな姿に、人々は彼を「野武士」と呼んだ。
2006年、サムソンはスプリングステークスを制し、クラシックの扉を開いた。
皐月賞では、激しく詰め寄るドリームパスポートを振り切り、先頭でゴールを駆け抜けた。
その勢いをそのままに挑んだ東京優駿――ダービーでも、逃げるアドマイヤメインを捕え、見事に二冠馬へと上り詰めた。
小倉デビューの馬がダービーを制するなど、前代未聞だった。
「サムソンはどんな馬にも負けへん。意地と意志の塊や」
騎手の石橋守は、そう語った。
4歳、2007年――産経大阪杯で復活の狼煙を上げたサムソンは、天皇賞(春)で宿敵アイポッパー、エリモエクスパイアとの壮絶な叩き合いを制した。
秋の天皇賞でもアグネスアークを封じ、史上4頭目となる春秋制覇を成し遂げる。
だが、風はいつまでも味方ではなかった。
2008年、世界最高峰――凱旋門賞への挑戦。フランスのロンシャン競馬場で、サムソンは10着に沈んだ。
日本のファンは、その敗北を悲しんだ。だが彼の走りに、恥じるものは一つもなかった。
重い馬場、不慣れな気候、長旅、すべてが逆風だった。それでもサムソンは、懸命に前を向いていた。
「サムソンは、どんなときも逃げんかった」
それこそが、彼の真の強さだった。
2009年、引退。サムソンは社台スタリオンステーションで種牡馬となり、新たな役割を担った。
決して「大成功」と言える成績ではなかったが、彼の仔たちは確かにその魂を受け継いでいた。
デンコウアンジュ、フロンテアクイーン――彼女たちがターフで見せた勝負根性は、サムソンの記憶を蘇らせた。
年月は流れた。
2024年11月26日、21歳の秋。サムソンは、静かにその生涯を終えた。
心不全だったという。厩務員が様子を見に来たとき、彼は風の吹く方を見つめるように、草の上に横たわっていた。
「よう、頑張ったな、サムソン」
誰かがつぶやいた。
風が吹いた。あのときと同じ、春の風だった。
そして人々は語る。
彼は速さで人を魅了したのではない。
勝ち方で、強さで、そして何より――「あきらめない心」で、誰よりも深く、ファンの胸を打ったのだと。
名は「サムソン」――
風に抗い、風と駆けた、不屈の名馬である。
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