北の大地に、ひときわ目立つ栗毛の若駒がいた。名を、マヤノトップガン。
「この脚で、どこまでも飛べる気がする。」
生まれついての天才ではなかった。デビューは遅く、初勝利も遅かった。仲間たちが栄光の舞台へと次々駆けていくなかで、彼は、ただ耐えた。体が弱く、結果もついてこない。周囲の評価は高くなかった。
だが、心の奥で燃えていた。自分だけの「飛び方」を探し続けていた。
そして、1995年の秋。菊花賞の舞台で、マヤノトップガンは羽ばたいた。神戸新聞杯、京都新聞杯とあと一歩届かなかった若駒が、初めて大舞台で勝利の栄光を掴む。3,000メートルの長丁場を、堂々と先頭に立って駆け抜けた。
「これが、俺の飛び方だ。」
その冬、有馬記念。相手は古馬の強豪、マーベラスサンデー、ライスシャワー。だが、マヤノトップガンは恐れなかった。ターフに広がる歓声の嵐の中、4角先頭、逃げ切り――栗毛の閃光がグランプリを制した。
年度代表馬。それは、誰もが彼の名を認めた証だった。
1996年、彼の名は既に全国区となった。だが、待っていたのは試練だった。阪神大賞典でのナリタブライアンとの死闘。宝塚記念での復活勝利。秋の天皇賞では惜しくも2着に敗れた。勝利と敗北、その両方がマヤノトップガンを育てた。
「負けることも、風の一部だ。」
1997年、彼は春の天皇賞に挑む。かつての敗北の地、京都競馬場。ライバルは、またもサクラローレル。そして、あの日と同じように、彼は静かに闘志を燃やしていた。
ゲートが開く。砂塵が舞う。馬群をかき分け、徐々に加速していく栗毛の姿。第3コーナー、誰よりも静かに、そして力強く彼は伸びていく。
「今だ、飛べ!」
ラスト200メートル、風を切ってマヤノトップガンは突き抜けた。1馬身1/4差、レコードタイム。勝利の瞬間、観客席から歓声が爆発した。
「ありがとう、みんな。俺は、ようやく風になれた。」
その後、彼は静かに競走生活を終え、種牡馬として第二の人生を歩んだ。産駒たちは父のように華々しい戦績は残せなかったかもしれない。だが、彼は誇りを持って、空を見上げていた。
2019年秋、彼は空へ旅立った。27年の生涯だった。
だが今も、あのグランプリの風の中に、京都の直線に、彼の魂は生きている。
――マヤノトップガン。変幻自在の撃墜王。その名は永遠に語り継がれる。
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