春の雪解け水が大地を潤す頃、北海道・安平町の牧場で、ひとつの命が生まれた。父は暴風の如き名馬オルフェーヴル。母は海を越えたアメリカの名牝、ライラックスアンドレース。その少女の名は、ラッキーライラック――「幸運の花」と呼ばれる五弁のライラックの名を冠した、輝きの予感に満ちた命だった。
彼女の走りには、最初から何かがあった。
2017年、夏の終わりの新潟競馬場。栗毛の身体を陽に輝かせ、彼女はまるで風そのもののように駆け抜けた。末脚は鋭く、先に抜け出したライバルたちを呑み込んでいく。初戦、圧勝。誰もが思った――これは只者ではない、と。
その名を轟かせたのは、阪神ジュベナイルフィリーズ。GⅠという大舞台で、彼女は堂々と直線を抜け出し、後続を寄せつけなかった。圧倒的な3戦3勝。満票でJRA最優秀2歳牝馬に選ばれたその夜、厩舎の灯の下で彼女は静かに草を噛んでいた。まるで、嵐の前の静けさのように。
だが、春は永遠に続かない。
クラシック戦線が始まると、最強の刺客が姿を現す。名はアーモンドアイ。まるで別の次元から来たかのような才能。その馬と出会った桜花賞で、ラッキーライラックは直線で交わされ2着に敗れる。オークスでもその背中は遠く、秋華賞では怪我明けもあり掲示板を外した。
世間は語った。「彼女のピークは2歳だった」と。
それでも、ラッキーライラックは折れなかった。彼女は忘れていなかったのだ。自らの血に流れる、父オルフェーヴルの狂気と誇りを。母が海を越えて託した希望を。
2019年、エリザベス女王杯。世間が他馬に注目する中、彼女はじっと己の順番を待っていた。スタートの合図とともに、ライラックは咲いた。内から差し込むように抜け出し、堂々の復活劇を見せたのだった。女王が、戻ってきた。
だが、それだけでは終わらない。
翌2020年、大阪杯。相手は前年の牝馬三冠を制したクロノジェネシス。だが、ラッキーライラックはそのすべてを受け止めて、跳ね返した。男馬をも蹴散らしての、完勝。あの目には、2年前、アーモンドアイに敗れた少女の面影はなかった。
同年秋、再び挑んだエリザベス女王杯。彼女はその名の通り、**“二冠女王”**となった。
だが時は流れ、物語の終わりも近づいていた。
2020年の冬、有馬記念。強豪が揃う中、ラッキーライラックはラストランを迎える。4着――その結果だけを見れば、栄冠には届かなかった。しかし、誰もが知っていた。彼女がこの数年間、どれほどの誇りと気高さをもって走り抜いてきたかを。
レース後、ターフを見つめる彼女の目は、どこか安堵にも似た光を宿していた。
2021年、競走馬登録が抹消されたラッキーライラックは、再び北海道の大地へと戻った。だがそれは終わりではなく、新たな始まり。今度は“命を紡ぐ者”として、未来の名馬たちをこの世界に送り出す番なのだ。
――春に咲いたライラックの花は、確かに競馬界の歴史に香りを残した。
そしてそれは、またどこかの季節に、誰かの胸の中で、そっと咲き誇るのだ。
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