彼女は春の風と共にこの世に舞い降りた。
2007年、北海道安平町。まだ雪解けの残るノーザンファームの放牧地に、ひときわ大きな瞳をもつ牝馬が生まれた。父は王の名を冠したキングカメハメハ、母は海を越えてやってきたアメリカ産のソルティビッド。名は「アパパネ」。ハワイの山に棲む真紅の鳥にちなみ、そう名づけられた。
誰がその時、彼女が歴史に名を刻む存在になると予想できただろうか。
初陣は2009年の夏、福島競馬場。馬群に沈み3着に敗れたが、ただそれだけでは終わらなかった。静かに、確かに、アパパネは強くなっていった。
秋、未勝利戦での快勝。そして赤松賞を難なく制すと、年末には2歳牝馬の頂点「阪神ジュベナイルフィリーズ」に挑んだ。直線で彼女は迷いなくインを突いた。風を裂き、差し切り、勝利。華奢な身体が歓声に包まれた瞬間、競馬場には赤い鳥が舞った。
春、彼女の物語はさらに加速する。
桜の舞う阪神で、圧倒的な末脚を披露し桜花賞を制覇。5月の東京では、オークスという名の長距離戦に挑む。そこに立ちはだかったのはサンテミリオン。2頭が並び、死力を尽くしたその瞬間、ゴール板は彼女たちの姿を一つに映した。史上初、GⅠ同着優勝――アパパネは栄光を分かち合いながらも、決して譲らなかった。
そして迎えた秋。京都の地にて、秋華賞。疲労の色を見せながらも、彼女は外から差し切った。凛とした姿で駆け抜け、ついに牝馬三冠を達成。その名は歴史に刻まれた。スティルインラブ、メジロラモーヌに続く、3頭目の偉業。
「私は、まだ終わらない」
4歳春。彼女は再び頂点を目指す。相手は、名牝ブエナビスタ。女王同士の死闘となったヴィクトリアマイルで、彼女は再び内を突き、差し切った。静寂とともに訪れた歓喜――これがアパパネの真骨頂だった。
だが、勝者にも限界はある。次第に成績は振るわなくなり、蹄の痛みに笑顔を隠す日々。2012年、右前脚の腱炎が判明。騎手も調教師も涙を堪えて彼女の引退を決めた。
「ありがとう、アパパネ」
その声は、春風のように優しく彼女を包んだ。
だが、彼女の物語は終わらない。繁殖牝馬としても、彼女は再び奇跡を起こす。2021年、娘・アカイトリノムスメが秋華賞を制したのだ。母と同じ舞台、同じ勲章。血は受け継がれ、想いは続く。
アパパネ――それはただの名馬ではない。風となり、空を舞い、歴史を走った存在だ。
彼女が駆けた芝は、今も静かに語りかけている。
「ここを走った赤い風のことを、君は覚えているかい?」
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