あの日、北海道の静かな牧場に春風が吹いていた。
ひときわ目立つ栗毛の仔馬が立ち上がった。
その額には白い星。まるで火星の大地に刻まれたような運命のブレーズ。
名を「アドマイヤマーズ」という。
遠き空に憧れを抱いた者のように、彼はまだ何も知らない目で世界を見つめていた。
栗東の厩舎で彼は育ち、初めてのゼッケンを背負ったのは2018年、夏の中京。
初陣は鮮やかだった。軽やかな脚取り、無垢なまでのスピード。
風のように走った彼に、誰もが目を奪われた。
その後も勝利を重ね、無傷のまま朝日杯フューチュリティステークスへと歩を進めた。
阪神の芝1600メートル、12月の空はどこか張りつめていた。
若き才能が一堂に会するこのレース、勝てば2歳の頂点。
ライバルは怪物と噂された牝馬・グランアレグリア。
だが、彼は怯まなかった。むしろ、楽しんでいるようだった。
直線、馬群を割るようにしてアドマイヤマーズが抜け出す。
ゴール板を駆け抜けたその瞬間、スタンドの空気が震えた。
「2歳マイル王者」――その称号は、栗毛の少年に与えられた。
だが、春。皐月賞の道は彼に微笑まなかった。
距離の壁、芝の重み、期待とプレッシャー――彼の脚は伸びず、春のクラシックは遠のいた。
多くの馬がここで道を違える。だが彼は、目指す場所を定めていた。
マイルへ。自らの得意とする舞台へ。
そして迎えたNHKマイルカップ。
府中の芝、5月の風。
出遅れ、馬群の後ろに沈むかと思われたその瞬間、
彼は――まるで、誰かの声に応えるように――一気に飛び出した。
「飛べ、マーズ!」
外から、内から、次々と馬を交わし、
ゴール板を越えた時、彼は確かに“戻ってきた”。
「二冠馬」。そして、もう一つの夢が芽吹く。
海外遠征。目指すは、香港マイル。
異国の空気。熱狂する観衆。歴戦の古馬たち。
彼はまだ3歳。だが、その眼には揺るぎがなかった。
香港・シャティン。
ゲートが開いた瞬間、彼はしなやかに飛び出した。
中団待機、直線での猛追。
内から抜けたビューティージェネレーション、外を駆けるワイクク。
だが、それでも彼はやめなかった。
一完歩、また一完歩。
差し切った。届いた。
「勝った……!」
歓声が割れた瞬間、空の彼方で、一人の男が微笑んだ気がした。
彼の名付け親であり、オーナーである男は、闘病の末、間もなく世を去った。
その後も、アドマイヤマーズは走り続けた。
4歳、5歳。勝利は遠のいたが、彼の走りは常に誇りに満ちていた。
やがて、静かに引退が発表される。
「火星」は戦いを終え、地に蹄を下ろした。
次は、命を繋ぐ旅――種牡馬としての新たな使命が始まる。
赤い閃光はもう、走らない。
だが、その血、その魂は、いつかまた芝の上で駆けるだろう。
そして観衆は、その走りに気づくはずだ。
――あの馬は、アドマイヤマーズの子だ、と。
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