2012年3月10日、北海道日高町ヤナガワ牧場――その朝、春まだ浅い北の大地に一頭の牡馬が誕生した。黒く力強い肢体と、澄んだ瞳。だが、その輝きがやがて日本競馬界の頂へと駆け上がる光であることを、誰が想像しただろうか。
彼の名はキタサンブラック。血統背景は派手ではなかった。父ブラックタイドはディープインパクトの全兄ながら種牡馬としての実績に乏しく、母の父サクラバクシンオーは短距離王者。長距離戦など到底無理だと、誰もが疑わなかった――彼の走りを目にするまでは。
“サブちゃんの馬”から、“日本競馬の象徴”へ
オーナーは演歌界の大御所・北島三郎氏。かつて紅白の大トリを務め、国民の心を震わせてきた「まつり」の主が、今度は競馬界で夢の続きを託したのが、このキタサンブラックだった。
「顔が二枚目で、俺に似てると思った」と笑う北島氏。たった350万円の購入価格。しかし、その“安馬”が織りなす物語は、億の名馬たちを凌駕するドラマとなる。
デビュー戦で勝利を飾ると、無傷の3連勝でスプリングSを制し、GII勝ち馬に名を連ねた。だが、それでも「菊花賞は長すぎる」「血統的に無理だ」と距離不安説は消えなかった。
その偏見を、力で覆す――それがキタサンブラックのスタイルだった。
菊花賞、逆境の美学
2015年、迎えた菊花賞。5番人気。リアルスティール、サトノラーゼン、強豪揃いの中で、先行しながらも粘りに粘る。迫り来るライバルを振り切り、最後はクビ差で勝利――クラシックホースの称号を手にした瞬間だった。
そして、ここからが彼の真骨頂。
2016年、名手・武豊とタッグを組んだキタサンブラックは、“逃げ”という戦法を極め、春の天皇賞を完璧なペースメイクで制覇。同年のジャパンカップでは東京競馬場に54年ぶりの雪が降る悪条件の中、馬場の良いところを読み切って逃げ切り勝ち。レース後、武豊が「今までで一番強い勝ち方」と唸った名演だった。
そして、2017年。GI初代王者として臨んだ大阪杯、再びの天皇賞(春)ではディープインパクトの持つレコードを更新。距離不安も、スタミナの限界も、あらゆる懐疑を力で黙らせた。
雨中の死闘、そして有終の美
秋、極悪馬場となった天皇賞(秋)では出遅れ、泥にまみれながらも最後方から怒涛の末脚。逆境でこそ輝く魂が、再び東京競馬場を熱狂に包んだ。
ラストダンスは、有馬記念。
あの年、彼の背には“国民的名馬”の名が刻まれていた。道中先頭でレースを引っ張り、最後の直線を全力で駆け抜ける。全てを出し切った走り。見事な逃げ切り勝ち。ゴール板を過ぎた瞬間、場内には5万人のファンの歓声と涙が交差し、北島三郎の「まつり」が鳴り響いた。
血は受け継がれる。新たなる“伝説”へ
引退後、キタサンブラックは社台スタリオンステーションで種牡馬入り。その息子、イクイノックスは2023年ワールドベストレースホースに輝き、父子での年度代表馬受賞という日本競馬史上初の快挙を達成。
勝ち続け、走り続け、記憶に、記録に、魂に刻み続けた馬――キタサンブラック。
彼の物語は、もはや血統表や成績表の数字では語り尽くせない。
それは一頭の“黒い巨星”が、誰よりも“競馬を愛し、競馬に愛された”証そのものだった。
レビュー1
キタサン祭り
泥だらけで勝った天皇賞がベストレースです。
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