北の大地、春の朝。まだ雪が残る牧場に一頭の牡馬が誕生した。
鹿毛の毛並み。きらめく瞳。名は「ハーツクライ」。
母の名“アイリッシュダンス”に由来するその名は、血の記憶を伝えるように――その後の数奇な運命を予感させていた。
彼は名門のサラブレッドだった。父は言わずと知れたサンデーサイレンス。だが、華やかな血統の裏で、彼の心にはいつもある影が付きまとっていた。
「強いが主役にはなれない」
調教師も、騎手も、その才能に疑いは持たなかったが、いつもあと一歩が届かなかった。
皐月賞14着、ダービー2着。菊花賞7着。
届きそうで届かない。勝者の影をなぞるような日々。観客たちの視線はいつしか彼を「好敵手」「善戦マン」と呼ぶようになった。
だが、2005年12月25日。中山競馬場。
彼の宿命は、奇跡に変わった。
年末の風は冷たく、だが場内の熱気はそれを吹き飛ばすほどだった。
主役は他にいた。
無敗の三冠馬、ディープインパクト。
スタートゲートの前。ハーツクライは静かに首を振った。
騎手がそのたてがみを撫でながらささやく。「君にはできる」
ゲートが開く。
スタートは静かだった。だが、レースが進むにつれて、彼の瞳が燃えはじめる。前を行く馬たちの蹄音が、かすかな怒りを呼び起こしていた。
“何度も見たこの光景。いつも最後に差されてきた。でも、今日は違う。”
残り600メートル。
ハーツクライは動いた。コースの外から悠然と浮上。
その姿に、スタンドがざわめく。
「来た――ハーツクライだッ!」
そのとき、内から黒い影――ディープインパクトが迫る。
スタンドの空気が変わる。
「抜かれるな!」
「行け、ハーツ!」
「夢を見せろ!」
歓声が怒涛のように彼を追い立てる。
ラスト200メートル――ディープが並びかける。
その瞬間、ハーツクライの胸にあった言葉が弾けた。
「もう、負けない!」
右前肢が地を裂く。蹄が芝を噛み、空気を割って、彼は叫んだ。
「俺にも、勝つ資格がある!」
ゴール板を駆け抜けたその瞬間、騎手の目には涙が滲んでいた。
「ディープを……破ったのか……」
歓声は嵐となり、実況は叫んだ。
「勝ったのは――ハーツクライだああああああ!!」
先頭に立つと、直線で猛追するディープを迎え撃ち、1/2馬身差でゴールイン。ハーツクライが後方一気でトップに躍り出るその瞬間、日本競馬史に名を刻んだ “伝説のアップセット” が完成した
表彰式。
冬の陽に包まれた馬体が誇らしげに輝いていた。
騎手も調教師も、ただ一言しか言わなかった。
「今日はこの馬が“本当の主役”でした。」
その夜、全国の競馬ファンは“勝てないはずの馬が勝つ”という奇跡に酔いしれた。
勝ったのは、夢を諦めなかった馬だった。
声にならぬ叫びを胸に秘め、何度でも挑み続けた栗毛の勇者だった。
その後、彼は海を越え、ドバイの地で再び世界を震わせた。
そして王者たちが集うアスコットで、誇り高く戦った。
引退後は静かに次世代へと命を紡ぎ、そしてその血はエフフォーリア、ジャスティンパレスらの中に脈々と流れている。
――いつまでも人々の心に残る、“心の叫び”。
それは、ただの勝利ではなかった。
それは、「諦めなかった者」にだけ与えられる、最強の証だった。
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