静かな朝、北海道の牧場でまだ雪の名残が残る春先、鹿毛の牡馬は静かにこの世に産声を上げた。彼の名は「エフフォーリア」。“強烈な幸福感”という意味の名を与えられたその仔馬は、何かを宿しているように、周囲を射るような眼で見つめ返していた。
仔馬時代の彼は、よく走り、よく眠った。無駄に暴れることもなく、食欲旺盛で、学ぶことに貪欲だった。「あいつは賢い」。厩舎の誰もがそう口をそろえた。まだ幼いその体には、父・エピファネイア、祖父・シンボリクリスエスの力が確かに流れていた。
そして2020年の秋。札幌の新馬戦。ゲートが開いた瞬間、彼は世界の意味を知ったかのように、芝を突き進んだ。堂々たる勝利。続く百日草特別も余裕を持って制したとき、調教師は確信した。
「この馬は、本物だ」。
2021年春、運命の皐月賞。中山競馬場は万雷の拍手に包まれていた。期待されたのは他の人気馬だったが、エフフォーリアの走りはまるで嵐だった。中団から一気に抜け出し、最後の直線を悠々と駆ける姿に、誰もが震えた。3歳にして堂々たる一冠。だが、それは始まりに過ぎなかった。
次の東京優駿(日本ダービー)では、鼻差でシャフリヤールに敗れた。その日、エフフォーリアは勝者の背中をただ静かに見つめていた。敗北を知った彼の目には、かえって強い光が灯っていた。
天皇賞(秋)。名馬コントレイル、グランアレグリアといった歴戦の強者たちが揃う中、3歳のエフフォーリアは再びゲートに立った。「若さは武器にはならない」──誰かがそう言った。だがその言葉を、彼は全力疾走で打ち砕いた。まるで矢のような末脚で並み居る強豪を抑え、彼は勝利の栄光をその蹄で掴んだ。
そして有馬記念。年末の中山を埋め尽くすファンの歓声が、彼の背中を押す。道中を我慢し、直線で先頭へ。最後はディープボンドの猛追を封じ込め、堂々の戴冠。彼はその年のJRA年度代表馬に選ばれ、名実ともに“時代の顔”となった。
だが栄光は長くは続かない。
翌2022年、春の大阪杯。彼の足取りにはわずかに迷いがあった。スタートから伸びず、9着。続く宝塚記念では6着、有馬記念では5着。いつしか「王者」の影は薄れ、ファンの期待は次第に不安に変わっていった。
そして2023年、京都記念。彼にとって、最後の舞台だった。
レース中盤、突然ペースが乱れる。異変に気づいた鞍上の横山武史騎手が手綱を引く。「心房細動」――それは彼がもう二度と戦えないことを意味していた。
厩舎に戻ったエフフォーリアは、静かに立っていた。勝ち負けではなく、命をかけて走り続けてきた誇りが、そこにはあった。誰よりも走り、誰よりも努力し、そして己の限界を正面から受け入れたその瞳は、何よりも美しかった。
「ありがとう、エフフォーリア」
そう声をかける者に、彼は静かに顔を向ける。その目にはもう、競走馬としての誇りと、次の使命が映っていた。
彼は今、種牡馬として新たな人生を歩んでいる。彼の血を継ぐ仔たちが、また新しい伝説を紡いでいくだろう。
だが我々は忘れない。
あの年、強烈な幸福感とともに、風のように競馬場を駆け抜けた一頭の名馬がいたことを。
その名は――エフフォーリア。
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