静かな夜明け、北海道・新冠町。春まだ浅いその日、錦野牧場の片隅で一頭の芦毛の仔馬が産声を上げた。
名はタマモクロス――。
細身で、虚弱。見た目に華があるわけでもなく、牧場関係者ですら、将来に大きな夢を託す者はいなかった。セリ市でも500万円という低価格での取引。しかし、馬は値段で走るわけではない。その若駒の中には、炎のような闘志が秘められていたのだ。
デビューは遅めの3歳春。初戦は7着、次も4着。誰もが「やっぱり凡庸な馬か」と肩をすくめた。だが、3戦目で初勝利を飾ったタマモクロスは、そこから少しずつ変わっていく。
そう思った矢先、4戦目で落馬事故に巻き込まれた。馬群を怖がるようになり、しばらくの間、真価を発揮できずにいた。だがその心の奥底には、決して折れることのない意志が宿っていた。
1987年冬、鳴尾記念。誰もが目を疑った。彼はそのレースで2着に6馬身差をつける圧勝を見せつけたのだ。それは、白き稲妻が再び走り出す音だった。
明けて1988年。彼の快進撃が始まる。
金杯を制し、阪神大賞典では後方一気の末脚で逆転勝利。そして迎えた天皇賞(春)。
3200メートルの長丁場、相手は歴戦の強豪たち。だが、タマモクロスは直線で風のように抜け出した。会場がどよめく。「白い稲妻」が駆けたその瞬間、すべてが変わった。
宝塚記念でも圧勝。秋には再び天皇賞に挑む。ここでも彼は冷静だった。直線、一気に先頭へ。そして栄冠。天皇賞春秋連覇――この偉業を達成したのは、史上初だった。
だが、勝者に安息の時はない。
ジャパンカップではアメリカの刺客、ペイザバトラーに屈し、有馬記念では、新星オグリキャップとの世紀の対決で敗北。だが、その姿に失望の声はなかった。あの目はまだ、前を見ていたのだ。
引退が発表されると、ファンは惜しみ、涙した。あの逆境から立ち上がり、栄光を掴んだ白馬は、彼らに夢を見せてくれたからだ。
やがて種牡馬として新たな道を歩んだタマモクロス。数多くの後継馬を残し、2003年、腸ねん転により静かにこの世を去った。
十九年の生涯。
だが彼の蹄跡は、今も芝に残っている。
それは、どれだけ不利な生まれでも、努力と誇りと情熱で未来は変えられるという証。
名もなき芦毛の仔馬が、やがて日本中を熱狂させる伝説となった物語。
彼の名は、タマモクロス。
「白い稲妻」は、永遠に競馬ファンの胸の中を駆け抜けている――。
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