冷たい春の風が、まだ雪解けの残る北海道・静内の空を駆け抜けていた。1983年、千代田牧場。その日、一頭の牡馬が静かに産声を上げた。鹿毛の輝きは、まだ弱々しい命の灯火だったが、そこに宿った運命は、やがて「風のように駆ける王」として日本中を熱狂させるものだった。
その名は──ニッポーテイオー。
英国の良血リイフォーを父に持ち、母チヨダマサコの静かな瞳を受け継いだ少年王は、幼いころから他の馬とは違っていた。賢く、落ち着きがあり、だが眼差しの奥には、一度も見たことのない広い世界を夢見るような光があった。
彼の戦いは、華々しいものではなかった。
デビュー戦こそ鮮やかに勝利したが、その後は思うように勝てない。皐月賞、NHK杯──クラシック戦線では、次々と名を馳せる同期の影に隠れた。どれだけ走っても、どれだけ努力しても、光は自分の上には降ってこない。
「お前には、マイルが似合うかもしれないな。」
そう呟いた調教師の目には、敗者に向ける憐れみではなく、挑戦者に向ける静かな信頼があった。
そして彼は、歩む道を変えた。
長距離から中距離、そしてマイルへ。世界は変わった。ニュージーランドTで重賞初制覇。函館記念ではレコード勝ち。スワンSでは、かつてのライバルたちを置き去りにするような豪脚を見せた。
そして──1987年秋。
東京競馬場。雲一つない空に、まるで風そのもののように現れた漆黒の馬体。ニッポーテイオーは、天皇賞(秋)の直線を、まるで舞うように走った。誰よりも静かに、誰よりも美しく。ライバルたちを5馬身置き去りにしたとき、歓声は嵐のように場内を飲み込んだ。
「王が、ここにいる──!」
その勢いのまま、続くマイルチャンピオンシップも制し、彼はついにその名を「マイルの帝王」として刻む。長く陰に隠れていた才能が、ついに陽のもとに現れた瞬間だった。
だが、栄光と共にあるのは、終わりの足音でもある。
1988年。ライバル・タマモクロスとの世紀の一戦、宝塚記念。最後の直線、もがくように走るニッポーテイオーの姿は、美しさと哀しさを孕んでいた。全力で走った。全てを賭けた。それでも届かないときがある。それでも走るのが、彼の宿命だった。
そのレースを最後に、彼はターフを去った。
走り続けた王。風となった魂。
引退後は種牡馬として、再び走る者たちの夢を繋いだ。名馬を、そして多くの挑戦者を世に送り出した。最後には、誰よりも努力しながら一度も勝てなかったハルウララの父としても知られることになる。
──それでも。
風は、風だ。
勝ち負けでは語れない、強さがある。孤独や敗北を知り、そこからなお走り抜ける力こそが、王の証だ。
2016年、晩夏の空の下。33歳。彼は静かに息を引き取った。だがその名は、今も多くの人の心に残る。彼が駆け抜けた芝、風の音、そしてあの誇り高い眼差しとともに。
ニッポーテイオー。
マイルの帝王にして、孤高の風。
誰よりも静かに、誰よりも熱く、夢を駆け抜けた名馬の物語は、永遠に語り継がれてゆく──。
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