あの日、カリフォルニアの空は限りなく青く、風はどこまでも澄んでいた。
一頭の鹿毛の仔馬が、生まれ落ちた。呼吸するたび、その胸に満ちるのは、まだ見ぬ世界への好奇心だった。名は、エイシンプレストン――その名が日本と香港、そして世界を駆け巡ることになるとは、誰も知らなかった。
やがて太平洋を越え、彼は日本の調教馬として新たな地を踏んだ。
プレストンにとって、日本の気候も、調教の厳しさも、すべてが異国の洗礼だった。しかし、彼は怯まなかった。毎日、朝の調教で汗をかき、時に鞍上の福永祐一とぶつかり合いながら、絆を深めていった。
そして1999年、京都競馬場。彼のデビュー戦は惜しくも2着に終わったが、その目は燃えていた。すぐに新馬戦で初勝利を挙げた彼は、年末の朝日杯3歳ステークスに駒を進める。
中山の芝、寒風が吹きつけるなか、プレストンは中団から一気に脚を伸ばした。
――勝った。
実況の声が空を切り裂き、観客のどよめきが揺れるスタンドを包む。彼は、日本の若駒の頂点に立った。
栄光の頂に立った者に待つのは、さらなる試練である。2000年、NHKマイルカップへ向けて順調に勝ち星を重ねていた矢先、プレストンは骨折という運命に打ちのめされた。言葉なき痛みに耐え、彼は静かにリハビリの時を過ごした。
半年の沈黙を経て、再びターフに戻った時、彼の体は少し痩せ、脚にはテーピングが残っていた。それでも、プレストンの目は曇っていなかった。
「もう一度、あの場所へ戻る」
彼はそう言っているようだった。
2001年、復活の狼煙を上げると、米子ステークス、北九州記念、そして毎日王冠と、次々に勝利を掴んだ。日本のファンが再び彼に熱狂する頃、プレストンは静かに海を渡る。
向かった先は、香港・シャティン。
「日本馬が勝てるはずがない」
そう囁かれていた。
しかし、プレストンは違った。2001年の香港マイル、後方から怒涛の末脚で抜け出し、異国のターフでG1初制覇を成し遂げた。香港の人々は、黒鹿毛のその姿に驚きと敬意を込めて、こう呼んだ。
――シャティンの申し子。
その後、2002年と2003年にはクイーンエリザベス2世カップを連覇。香港を舞台にした三つのG1勝利は、アジアの競馬史に刻まれる快挙だった。
「彼がいれば、どこへでも行ける」
騎手・福永のその言葉には、決して揺らぐことのなかった信頼が滲んでいた。
しかし、時は残酷だ。2003年、プレストンは静かにターフを去った。香港カップを最後に引退した彼は、北海道の牧場へと身を移した。
ターフの上でその名を轟かせた英雄は、種牡馬として新たな命を世に送り出すも、競走馬としての栄光に勝るものはなかった。人々は彼を「懐かしの名馬」として語り継いだが、その名前に宿る熱は、少しも冷めることはなかった。
そして――2025年2月。
エイシンプレストン、静かに息を引き取る。28年の生涯だった。
その報せに、かつての仲間たち、ファン、そして福永祐一は、そっと目を閉じた。
「ありがとう、プレストン。お前と歩いたすべてのレースが、俺の誇りだ」
最後のレースのゴール板を超えたその先で、彼の蹄音は、今も風に乗って、芝の上を駆け抜けている。
――遥かなるその先へ。
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